院長挨拶

ウチダ整体堂 院長 内田 博之(ウチダヒロシ)
1991年 長生学園専門学校卒業(東京都)
日本カイロプラクティックドクター専門学院仙台校 有資格者ドロップテクニックコース修了
1993年 指圧・マッサージ国家資格取得
2004年 介護支援専門員(ケアマネージャー)取得
シャーマンカイロプラクティック大学サーティフィケイトコース終了
(Shiokawa School of Chiropractic主催)
Shiokawa School of Chiropractic ガンステッドコース終了
パシフィックアジアカイロプラクティック協会 トムソンテクニック終了
パシフィックアジアカイロプラクティック協会SOTベーシック、アドバンス終了
アプレジャーインスティチュート正会員(アメリカ)
米国アプレジャークラニアル学会 会員(アメリカ)
ワイルドローズカレッジサーティフィケイト取得(カナダ)
クラシカルオステオパシーセミナー終了
アプレジャーインスティチュートインターナショナルCST1セミナー終了
経験したスポーツ
剣道、柔道、スノーボード
好きなピアニスト
バレンティーナ・リシッツァ
ソフィー・パチーニ
アリス=紗良・オット
車で聴く音楽
B’z 浜田省吾 三山ひろし
皆さま、当院のホームページをご覧いただきありがとうございます。当院は29年前に福山市で腰痛・首肩専門院として開業し、長年の継続の力により、部分整体から全身を整えるゼネラル整体院へと進化を遂げました。
現在は腰痛や首肩の痛みだけでなく、肘や手首、指、足の裏や足指の付け根、外反母趾、足関節の痛み、尾骨、顎関節、頭痛など、さまざまなお悩みを抱える方のご相談もお受けしております。気になる症状がありましたら、ぜひお知らせください。
開業当初、80代のご婦人が来院され、嫁入り道具として持参したブラザーミシンを60年以上大切に使い、日々ホコリを取り、乾拭きし、油を差してメンテナンスしていたと話してくださったことがありました。そのお話を伺い、やはり手入れをすれば物は長持ちするのだと感じ、人間の体も同様に、整体でメンテナンスすることで長く健康を保てるのだと実感しました。
実際に、当院で痛みの症状を改善した後、定期的に整体を続けていらっしゃる方々は80代でも元気で、旅行前や庭掃除後などに来院されることも多いです。もちろん、つらい痛みを取り去ることは重要ですが、100歳になってもご自身で歩けるようなバランスを保つための予防整体も大切だと考えています。
ですから、痛みの解消はもちろん、将来にわたって元気に散歩や旅行ができることを目指し、整体施術を受けていただきたいと思います。日本のJRや航空会社の職員が高齢者に敬意をもって親切に対応している姿を見るたび、長寿も素晴らしいと感じます。耳が遠くなることは避けがたいものの、補聴器も今後さらに進化するでしょうから、安心して日々を楽しんでいただければ幸いです。
スタッフ紹介

エステティシャン 内田 雅子

受付・助手スタッフ
ウチダ整体堂の整体とは


4本柱で、 お身体の改善に貢献させていただいております!
フレキシブルカイロプラクティック
Dr.小倉式カイロプラクティック
カイロプラクティックドクター専門学院仙台校学院長である小倉毅先生が体系化した施術で、患者様の状態に合わせて柔軟に手技を変えていくのが特徴です。私はこれを「フレキシブルカイロプラクティック」と呼んでいます。


トリガーポイント指圧
内田式指圧療法
内田式指圧は、医学的な根拠に基づく部位と東洋医学的な経絡のツボを融合し、個々に合ったポイントを指圧することで身体の不調を改善する施術法です。この指圧療法では、指圧時に「気功」も注入しており、直接肌に触れて気を伝えることで温かさを感じる効果が得られます。


オステオパシー
欧米の整体療法
当院では、オステオパシーの中でも頭蓋骨療法(クレニオセイクラルセラピー)を主に使用しています。脳脊髄液は脳室に貯留され、後頭骨や上部頸椎、仙骨の微細な動きによって循環します。この循環により、脳脊髄液が神経をクリーンアップし、神経伝達が速くなります。その結果、体の動き、思考力、判断力、疲労回復力などが向上する効果が期待できます。


プレミアムメディカルレスポンス
施術中の会話を含めた高度な応対
当院では、オステオパシーの中でも頭蓋骨療法(クレニオセイクラルセラピー)を主に使用しています。脳脊髄液は脳室に貯留され、後頭骨や上部頸椎、仙骨の微細な動きによって循環します。この循環により、脳脊髄液が神経をクリーンアップし、神経伝達が速くなります。その結果、体の動き、思考力、判断力、疲労回復力などが向上する効果が期待できます。


適応症状
- 腰や脚、ヒザの痛み、股関節、足関節、足指の痛み
- 首・肩・背中・肩甲骨まわり・腕から手への痛み、シビレ
- 頭痛・めまい・耳鳴り・アゴの痛み・胃腸障害・不眠
- 大人のスポーツ障害( テニス、ゴルフ、ロードバイク、ボルダリング、登山、マラソン)
- 交通事故後の痛み
ヒストリー
父は昭和12年生まれで、近畿大学理工学部を卒業後、当時大卒理工系で人気No.1だった日立製作所に入社しました。そのため、私の幼少期は本社のある茨城県日立市をはじめ、横浜市戸塚区や湘南地区の神奈川県平塚市で過ごしました。
整体院の移転時に、子供の頃から大切にしていたアルバムを紛失してしまいました。本当に悲しかったです。亡き父はカメラが趣味で、カラー写真のアルバムを2冊撮ってくれていたのですが、どちらも行方がわからなくなってしまいました。アルバムに残らなかった写真というのは、向きが悪かったり、あまりいい服を着ていなかったりするものばかりですが、少しだけお見せしたいと思います。
母は実家が従業員50人程の会社を経営していたので当時珍しく女性で運転免許を持っており自分専用の車も所有していました。ですから私をよくドライブに連れて行ってくれました。湘南の平塚に自宅を構えていたので、休みの日には湘南海岸や横浜までよく出かけたものです。今から約54年前、湘南の道を走っていた外国製のバイクを思い出します。オレンジ色や黄色の長いカウルをつけたその姿を見て、早く大人になって自分もバイクに乗りたいと心ときめかせていました。
私の母の実家が福山でしたからわりと頻繁に新幹線で横浜から帰省していました。(私の生まれる前年に東海道新幹線が開通)
車で帰ることもありましたがほとんど新幹線で福山を行き来してました。 その後、父は15年勤めた日立製作所を退職して母の実家の経営する会社に転職しました。
勿論、私も小3の時に神奈川県から福山の小学校に転校しました。
母方の祖父は当時から従業員50人程の会社の社長で私が大学生のころは福山北ロータリークラブの会長を務めていました。私は祖父がロータリーの会合に出る時は車で運転手をしていました。今は亡き福山グランドホテルが会場でした。
祖父はとにかく私をよく温泉旅行に同行させてくれました。
大学卒業後の1989年4月 東京都にある整体名門の長生学園専門学校に入学
子供の頃は横浜市や湘南地区に住んでいたこともありとくに東京に対しては抵抗はありませんでした。
問題は東京都内のカイロプラクティック院や整体院での修業時代でした。当時インターネットなどはなく全部自分の脚で修業先を探すか学校の掲示板を見るかその他は今でもありますが医道の日本という東洋医学系雑誌にインターン募集のコーナーがありよく面接に行ったのが懐かしいです。
なかなかやる気がわくところがないなと落ち込んでいる時に日経トレンディーという雑誌をパラパラとめくっているとなんとカイロプラクティック院の紹介コーナーがありすぐ電話しました。
当時私はまだ24歳だったので若さもあり電話だけで面接してもらえることになりました。
次から次にやってくるスーツをきた証券マンや大企業の社員の方達。先生はこの世界の巨匠で芸能人やプロスポーツ選手が沢山来ていて次から次にい矢継ぎ早に施術をこなす姿はとてもかっこよくて光輝いていました。アメリカからも頻繁に電話がかかってきていてただただすごいなーっと感じましたね。
あと東京では大企業の社員がすごくかっこよく思えるんですよ。
私はうらやましくて仕方ありませんでした。当時整体やカイロプラクティックを勉強していることを女性とかに話したら大笑いされていましたよこれ!とか言って親指を立てられるんです(笑)
まあ福山に帰ってからはそれは思わなくなりました。そんなに大企業もないし。やはりあれは大企業の社員が都心で仕事をしているのが絶妙にマッチしていて格好いいのです。
とにかく東京都心での修業は大変でした。最初は笑顔を出すことさえできませんでした。家業も接客業とは無縁だったため、笑顔に慣れるまでには大変苦労しました。そんなこんなで、都会の人は良くしゃべるし会話の速度も速いんです。接遇ができなければ整体師として致命傷になるんですよ。
仕事中に泣いたこともありました。
子供のころ横浜や湘南で育ったプライドだけが大都会で修業できた勇気になっていたはずです。
そんなこんなで東京には6年半いました。カイロプラクティック院を2件渡り、その他接骨院や整形外科、鍼灸指圧院で修業してだんだんと私も早口になりリズムよい会話ができるよにになりまた整体やカイロプラクティック技術も身に付きましたので福山に帰って開業する決意ができて平成7年11月に福山市手城町で開業しました。
私がこれまで祖父母や両親から多くの仕送りをしてもらってきたこともあり、このままでは自立できないと感じ、できるだけ費用を抑えて、自分の力で開業することを目指しました。ですから築25年の古いビルの3階のテナントに入りました。
腰が痛い人が階段で3階まで上がっていくなんてだれもがすぐつぶれると思った事でしょう。しかし私には自信がありました。特殊なやり方でしたし。案の定すぐに繁盛しました。
最初からすべての症状に対応することは難しいため、腰痛専門院としてスタートしたのです。それから開業30年が経つ現在では、頭の先から足の先まで幅広い症状に対応できるようになり、「継続は力なり」という言葉を実感している今日この頃です。また定年がないため健康でいればいつまでもできるという喜びもこの歳になりありがたいことであると感じています。



当時自宅近くの横浜ドリームランドにて

